聖者たちの宗教観とは?
「助けよ、そして戦うな
破壊ではなく同化
紛争ではなく調和と平安」
ヴィヴェーカーナンダ
人間関係において宗教観って、重要なファクターだ。日本は無神論者が多いというが、宗教について聞くのは、なんとなくタブーになっている。仲の良い友達にも、最も聞きにくい話題と言っても良い。宗教2世や統一教会の問題についても、こういうタブー視(話題にしない、避ける、ふたをする傾向)がもたらした弊害で、ここまで問題の発覚が遅れたのかもしれないなぁなんて思う。
日本は社会性・協調性が強すぎて、元々、「それって変だよね?おかしいよね?」が生まれにくい社会だから、結構な根が深くなってから物事が発覚してしまうという事件が、最近相次いでいるように思うなぁ。(2023年秋)今日はテツコは真面目モード(笑)
コップの水があふれる例えってよくあるけど、あのコップが日本は大きすぎるのかも。これって、会社や団体・組織だけじゃなくって、友達グループみたいな小さいことでも起こりうることで、それがいじめにもつながるし、夫婦みたいな2人の関係で起こるDVもそうだし、人が集まると、その中だけで通用する「当たり前の強要」が「当たり前」に行われるんだよね。
一歩外に出れば、常識や正義が全く違う組織や団体や集団はたくさんあるから、外に抜け出せば、違う世界が広がっている。苦しくなったら、そのことにも気付いてほしい、なんて思ってしまう。本当、テツコ、今日は真面目過ぎやしないかい?!どうしたどうした。いやー、やっぱり、平和を願う気持ちが、ことさら強いのでございます。
では、話を元に戻しますね。宗教観の違いは価値観の違いにつながるので、結婚前には必ず確認しておきたいという人たちも多いはず。先日、こんなことを言う男友達がいて、爆笑した。
「女の子の家に行った時に、何を見る?」
テツコは「男子が部屋に着たら、女子の何見てるんだろう?」「彼女として合格かどうかって、どこで、見極められてしまうんだろう?」なんて、ドキドキワクワクで質問をぶつけた。水回りのきれいさとか、洋服の多さとかカーテンの趣味とか、そんな解答が返って来ると思っていたが、彼はこう答えた。
「仏像があるかどうか。」
「えっ?」と耳を疑った。「じゃあ、私の家に来た時も、そんなところチェックしてたの?」「うん。一番最初に見る。」
これには、結構笑った。へぇって。そういうもんかぁと。「おもしろい人だなぁ」って彼とはとても親しい友人となったが、やっぱり、恋愛にも宗教観が大切ということを示す良い例だと思う。
こんな話もある。アメリカ人の友達が彼女とケンカをしたというのだ。ケンカの原因は、「charch」だという。2人とも同じキリスト教徒なのに、なぜだろう?と思った。どうやら宗教観が異なっていたらしく、彼はgodの存在を信じているが、教会に通う必要がないと考えている。それに対して、彼女は毎週教会に行くべきだと考えていたらしい。
テツコの英語力では、その理解で精一杯だった。宗派の違いなのかな。キリスト教もたくさんの宗派がある。そして、思うのだ。同じキリスト教徒でも、意見の対立があるのだから、他の宗教との対立もある意味で納得してしまうことを・・・。ムムム。
しかし、インドのリシケシにあるアシュラム(僧院)は違う。アシュラムに行くと、マリア様もいる、コーランもある、どの宗教にも敬意を払っている。テツコには、桃源郷に思える、いつかは行ってみたい憧れの場所だ。
あんまり関係ないなぁと思ったあなた!かの、有名なビートルズが1968年にメディテーションの修行に訪れたことでも有名なのがリシケシ。ビートルズはここで48曲も生み出し、ホワイトアルバム、アビーロード、イエロサブマリンなどを誕生させたというのだから、リシケシにはものすごいパワーがあるはずだ。下の写真がビートルズ・アシュラム。
リシケシにあるアシュラムに話を戻そう。
ヴィヴェーカーナンダはあらゆる宗教の信者たちに平等にこう呼びかけた。
「ヒンドゥ教徒のブラフマンであり、ゾロアスター教徒のアフラ・マズダであり、仏教徒のブッダであり、ユダヤ教徒のエホバであり、キリスト教徒の天にまします父である彼が皆さんに高貴な思想を実現するための力をお与え下さるように!」と。すごいなぁ。寛容だなぁ。
スワミ・シヴァナンダは
「真実は1つ、すべての宗教の教えも1つ。狭い心が不必要な争いを起こし、不幸をもたらしている」と全世界に演説したのである。
その宗教的寛容さは、インドの根底にある柔軟さが理由なのかもしれない。ヒンドゥー教の聖典って、様々な人に書き加えられていて、はっきりと著者が分からないものも多い。あらゆる思想を受け容れながら作り上げた点こそ、ヒンドゥー教の、自由で柔軟な性質を示しているように思う。
もちろん、1つの宗教のみを敬虔に信仰することはすばらしいことだ。ただ、排外主義のように、他を否定することと同義ではないはずだ。
スワーミー・プラバヴァーナンダはこんなおもしろい表現をしている。
「もしキリストやブッダ、ムハンマドを一緒に同じ部屋に通すと、彼らは互いに抱き合うだろう。しかし、もし彼らの信徒をおなじ部屋にいれると、彼らは互いを殺し合うだろう」(初めてのヴェーダーンダより)
宗教の本質は、信者たちが誤解していくものなのかもしれない。
ラーマクリシュナはヒンドゥー教はもちろんのこと、イスラーム教もキリスト教も実践したユニークな聖者である。どうしても厳格な人ほど人々の尊敬を集めやすいし、エピソードもすごい!ってなるけれど、実際は寛容になることの方がより難しいことなのではないか?と思うテツコは、ラーマクリシュナのような、ユニークな聖者の存在をもっと広めたいと思っている。
『ラーマクリシュナはなんのわだかりもなく、誠心誠意イスラーム教も実践しました。神がそれほどまでに彼の生命のおおきな源であり、それだから彼は可能なかぎりの方法で神を体験せずにはいられなかったのです。「ケーキはどこから食べてもおいしい」とラーマクリシュナはよくおっしゃったのです。』(初めてのヴェーダーンダより)
その通り、あらゆる宗教は少しは似ているはずだ。どの面を強調しているかで異なるかだけだと思う。(このブログ、誰かから怒られそうだなぁ。すみません、お手柔らかに。多様な意見は否定していませんので、すべての意見がすべて正解だとテツコは思っています。)
テツコは相違点を見るのではなく、共通点を見ることによって、平和を見出したいのだ。アシュラムには平和がある。世界は平和とは言えないけれど、理想的な平和がアシュラムにある。どんな神様にも敬意を払い、尊敬する姿勢がある。
ヨガのレッスンの後に、インストラクターの先生が「オーム シャンティー シャンティーシャンティーナマステ」と言う。シャンティは平和という意味である。
こうして毎日唱えるように世界に平和を訴えよう。
クリシュナムリティは
「変わりなさい、そうすればあなたは世界を変えるだろう」と言及する。
ヴィヴェーカーナンダは世界中にこう訴えた。
「助けよ、そして戦うな」
「破壊ではなく同化」
「紛争ではなく調和と平安」
生きとし生けるもの、すべてが幸せでありますように。平和を唱え続けよう。実は、このブログを考えたのは、10年前。こんなにも、世の中が戦争に包まれているなんて想像もつかなかった。こんなにも世界で戦争が多発するなんて・・・。
本当に、戦争は始めてはいけないのに・・・、始めるから終わらないのに。
無力な自分だけど、平和を祈ることだけはできるはずだ。今日もヨガを隣に。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。