【ヨガ哲学の名言】「足るは知る」は現代こそ必要な言葉

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誰かと比較する必要はない!

「知足によって無上の喜びは得られる」

ヨガ・スートラ

ある人とデートをした時の話。いきなり「家(実家)が見たい。」と言われ、実家近くで待ち合わせをした。すると。いきなり「両親に会いたい。」と言われた。かなり動揺した。「無理無理!」つきあってもいないのに両親に会わせるなんて。

すると、デートでは「お父さんの仕事?」「お母さんの仕事は?」「お姉さんの仕事は?」と、とにかく質問攻めにあった。「もう恋愛とかではなく、条件で結婚相手を選びたいんだ。」と彼の正体は条件大好き男だったのだ。

テツコは舞い上がった。年下だし、結婚相手に考えてくれてるなんてと。彼とはなんだか腐れ縁のような感じで、「きれいですね。」というポストイットが貼ってあるお茶をもらったり、出身大学のマスコットキャラクターをもらったり、友達としても仲が良かったけれど、急に恋に動き出したのかと思って、とっても楽しくなった。

しかし、テツコの方が優勢だったはずなのに、いつの間にか形勢が逆転してしまい、仕事で落ち込むことがあって泣きながら電話した時、長らく友達だったこともあり、ちゃんと告白ができなくて、「私フラれたんだー。」と婉曲的に歪曲して言ってみたら、「いや、フってはいないけど。」と否定されただけで終わった。はっきり「好きだ」と言えば良かったのにね。

つまりは、何も言ってくれなかったから、フラれたも同じ。捨て身の告白まがいの行動は大失敗だったという訳です。テツコ、色々やらかしてるでしょ(笑)?!

そこで、彼に言いたいこと、テツコで我慢すればよかったのに、ということ。そこそこでまあまあだったから、今までのつきあいもあったことだし、「足るを知る」の気持ちで、妥協でも良いから、テツコを選んで落ち着いて欲しかった。

そっちか?変な解釈をするテツコ。だってさー、理想が高すぎて結婚したくでもできない人もたくさんいると思うんだもん。そういうもんでもないことは分かってるけどさ。

それではニヤマ(日常生活で行った方が良いこと)のサントーシャ、すなわち、「足るを知る」とどうなるか。

ヨガ・スートラに解答を求めよう。

「知足(サントーシャ)によって無上の喜びが得られる。知足の結果として、人は無上の喜びを知る。満足との違いを理解しておかなくてはならない。知足とは、幸福を求めて外界に赴くことなく、ただあるがままであることである。もし何かが来るなら来るがままにさせる、来なければ来ないでそれも良し。足知とは、好悪のないことである。」

その通り、テツコがたまたま来たのだから、テツコで我慢して欲しかった。そしたら、もしかしたら今大きな幸せがあっただろうに。なんてね。ちょっと、やばい解釈してる(笑)

佐保田先生解説によると、

『自分にどんな境遇が与えられても、甘んじていくというのを、知足の戒行というのです。今時の人は「そんな消極的なことでは、幸せになれない」と言うかもしれないけれど、実はそういうものではない。やはり、自分自身の境遇に不平を持ったからといって良くはならないのです。何とか良くしようともがいても良くはならないのです。もがいた結果、悪くなる人が多いですね。もがかないで現在与えられた境遇に満足して、ベストを尽くす人は、却って、だんだん向上してゆく。そこに知足の戒行の意味がある。知足の戒行を守って行くと、無上の幸福が得られるとある。この幸せは、喉が渇くように、尽きぬ喜びが、中から中からと湧いてくる幸せである、とあります。』

確かに、現状に不平・不満があったからって、良くはならない。現状に満足して、与えられた環境で、ベストを尽くした方がどんどん好転する・・・。分かる気がする。

幸せの国として一躍有名になったブータンはチベット仏教の信仰の厚い国であり、この「足るを知る」の精神が大切にされていた。「身の丈」「身の程」とも似てる言葉だと思う。

人口約70万人という小規模な国だから、日本とは少し異なるかもしれないけれど、ブータンでは殺人や自殺などがほとんどないという。みんな知り合いだから、誰かを批判したり、非難したりする機会もあまりないらしい。70万人って、誰かは誰かの知り合いみたいな地元みたいな感覚に近いもんね。

「足るを知る」という美徳は、競争の激しい日本人には「目から鱗」かもしれないが、現状に不満な国民がいる国より、満足している国民が幸せな国であるということは言うまでもない。

確かに、日本はみんながみんな、プロの批評家のように誰かを批判したり、非難したりする文化があまりにも根付いてしまったように思う。日本人は、自分にも他人にも厳しい人が多いのかな。あるいは、競争があるから、誰かを蹴落とそうとしてでも、奪おうとするといったことも起こってくるのかも。競争社会は人々の心をカツカツスカスカにする。

だから、人への評価が自ずと厳しくなっていくのかもしれない。でもよくよく考えると、競争、比較は簡単。順位にすれば良いだけ。こんなに洗練された日本人が、あまりに短絡的ではないか。

「あの子は成績が良い。」「あのだんなさんは稼ぎが良い。」「あの奥さんは料理上手だ。」「あの人の方が痩せてる」など比較って、あまりにも簡単だけど、言葉にした途端、人を傷つける。

テストの点だけではなく、字のきれいさだったり、稼ぎだけじゃなく、仕事に対する丁寧で誠意のある姿勢だったり、料理だってメニューの豊富さだったり手際だったり、単純な比較だけでは補えない、誰にも見えていないものがあるかもしれないのに。

だから、そもそも比較する必要なんてどこにもないはずだ。比較する必要性について、もっとよく考えてみてほしい。社会が資本主義で競争社会である以上、社会上の、社会的な比較は仕方なくても、個人間での、日常的な比較は必要ないと思う。

ライバルがいた方が頑張れるって人だけが、比較をうまくチョイスして、比較されたくない人は比較はなしで、みたいに、お店のオーダーみたいに、周囲の人たちに伝えてみるのも良いよね。コーヒーのオーダーみたいに、私は砂糖もミルクもなしで、みたいに、簡単に伝えられたら良いのに。いや、伝えていこう!

よく「ほめられると伸びる子なんで」と言う人がいるけれど、(そういわれると、テツコはあまのじゃくでほめたくなくなっちゃうけれど)「私、比較されたくない派なんで」とか、言ってみてもよいはず。ある意味、これって、自己開示だよね。自分を知ってもらうためのコミュニケーション方法。

人間関係がギクシャクするのって、理解して欲しいと思っているのに、自分のことをきちんと言語化できなくて、言葉にしないこと、言葉足らずが原因なことも多い。こうだから、こうして欲しいというのは、日本人にはなじまないかもしれないけれど、「察して」というのは男性には特に伝わらないので、どんどん言葉にしていこう!

その方が相手も自分も楽になれるかもしれない。「そういうタイプだから、仕方ないな」って割り切れたりするもんね。理解して欲しいならば、お互いの歩み寄りがやっぱり大切だ。その一歩が、自分を知り、相手を知ること。

今日のまとめ!せめて、比較で周囲の人を傷つけることは減らしていこう!最後は「足るを知る」の言葉を胸に、今誰かがあなたの周囲にいてくれるだけで、とても幸せなことだから、現状にも満足しよう。(ある程度。)不満ばかりでは、自分も周囲の人も辛くなる。

幸せな人が隣にいると、周囲も幸せになる。あなたの笑顔で周囲を幸せにしよう。

あなたの笑顔が、みんなうれしい。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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