【ヨガ哲学の名言】アンガーマネジメント!

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イライラした時の対処法とは?

「どんな時ももう一度やってみるのです。もはや戦えないと思った時に戦いなさい。」

パラマハンサ・ヨガナンダ

あなたはどんな時にイライラしますか?夫が家事を手伝ってくれない時、友人にドタキャンされた時、彼氏とケンカした時、上司に不当な仕事を任された時、クレームがあった時などイライラポイントは様々であり、人によっては頻繁なものかもしれない。

かくいうテツコはほとんどイライラしない能天気な性格ではあるが、たまにだからこそ、イライラすることがあると、引きずってしまい、なかなか払拭できないのである。イライラが止まらない、忘れられない!そこで、今回はテツコが考えるリラックス法について紹介したい。

不謹慎だと批判される方もいるかもしれないけれど、気楽に捉えてくださいね。それはテツコは眠る時に「死んでやる!」と思うことである。もちろん、本当に死ぬことではないので、誤解なさらないでくださいね。本当の意味の死ぬことではなく、ぐっすり眠ることです。

忘れるために、思いっきり寝ること。不謹慎であり、邪道極まりないことが理解しているが、そう思って眠ると、朝目覚めた時に、昨日嫌だったことがすっかり「リセット」されているのである。きっとその日の嫌な気分が一度死んだのかもしれない。綺麗に消されたのかもしれない。自然とリセットされている。新しい自分に生まれ変わっているような、あのヨガ後のシャバアサナの爽快感と同じように。

クリシュナムリティもこんなことを言っている。

「日々、すべてのものに対して死ぬこと。人はそうしたすべてに対して瞬間ごとに死ななければならないのです。その膨大な蓄積的な記憶に対して。そうしてそのときにのみ、精神は自己ーそれが蓄積の主体なのですが、それから自由になるのです。」

つまり、すべての物事に対して「死ぬ」という客観的な立ち位置で生きることを推奨しているのである。確かに、ヨガ哲学では、肉体を自分そのものと捉えないという考えがあるから、クリシュナムリティは精神と肉体を離すという意味で捉えているかもしれないし、「無」になることに近い意味として用いているのかもしれない。

ただし、先ほどの方法にも注意が必要である。目覚めた朝、逆にものすごくつらくなる場合もあるのだ。例えば、失恋した次の日は全然リセットされていない。全く。むしろ、きのうの別れは嘘だったのかな?夢?いや、現実だったのだ、と妙に悲しくなって涙が溢れてしまうのでやめた方が良い。

あと、孤独で寂しくて仕方のない日の翌朝は「今日も1人だ。」、と朝から参るくらいの孤独感が襲う日もあるので気を付けていただきたい。おそらく、長期的な悩みではなく、短期的な悩みの場合のみおススメです。荒療治かもしれないので、注意が必要ですね。

さっきの方法で寝ても、目覚めた朝、逆にものすごくつらくなる場合もある。例えば、失恋した次の日は全然リセットされていない。全く。むしろ、きのうの別れは嘘だったのかな?夢?いや、現実だったのだ、と妙に悲しくなって涙が溢れてしまうのでやめた方が良い。あと、孤独で寂しくて仕方のない日の翌朝は「今日も1人だ。」、と朝から参るくらいの孤独感が襲う日もあるので気を付けていただきたい。

おそらく、長期的な悩みではなく、短期的な悩みの場合のみおススメです。荒療治かもしれないので、注意が必要ですね。テツコ的に「くそー」「むかつくー」って言う元気があるくらいのことなら有効かなと思っております。

最後に、ヒンドゥ教の死生観について触れておこう。日本人は命を粗末にするなと言い、やはり命の至上性というものはものすごいものがある。それに対して、ヒンドゥ教には根底にサンサーラ(輪廻転生)があるから、死はただ肉体が離れただけと捉える。日本とインドでは大違いである。

テツコにも少しそんなヒンドゥ教のマインドが流れ始めたのかもしれない。そう考えるだけで死が恐怖ではなくなる気がする。ヨガ哲学では「イディ ナー デーハム 私は体ではない」という言葉がある。

アシュターバクラ・ギーターでは「あなたは身体ではない 身体はあなたではない あなたは行為者ではない それを楽しむ人でもない あなたは純粋なきづき すべてのものごとを見守る観照者だ 期待もせず自由だ どこへ行こうと幸せでありなさい!」と書かれている。

確かに、自分で起きている出来事がすべて、ドラマだ!と思って、客観的に見れば、人生って楽かもしれない。「観照者」とは本質を見極めるって意味だけれど、すべての起こった出来事を見ているだけの存在だって思えば、心も軽くなる。すべて、自分事として100%受けてしまうとしんどいこともあるから、こういう考え方は時々してみると良いかもしれない。

もしあなたが今立ち止まっているなら、この身体で過ごすのも一時的なもので限りがあるのだと思えば、思い切って前に進むことができるかもしれない。もしあなたが今解決できない課題に立ち向かわなければならなければならないなら、この一時的な肉体だから、「思い切って戦ってやろう!」と思えるかもしれない。あなたが今死を恐れているならば、死に向き合うことができるかもしれない。

ラーマーヤナやヴァガヴァギットギーターのようにヒンドゥ教の聖典と言われるものは、いつだってバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラのクシャトリヤが主役だ。クシャトリヤは戦士のこと。彼らが主役として描かれているのは、それほど、「人生は戦いだ」ということだ。

本当の意味の戦闘ではないにしても、いつだって誰だって自分と戦っている。だから、ヴァガヴァギットギーターのように、クリシュナが、戦うアルジュナを鼓舞する物語を読むと、人々は人生を感じるのだろう。人々に長く読まれているという歴史が証明してくれている。

「幸と不幸 損か得か また勝敗のことなど一切考えずに ただ義務なるが故に 戦うならば 君は決して罪を負うことはない」(バガヴァギット・ギーターより。)

さぁ一緒に戦おう。人生という荒波は決して楽ではない。人生という難解な旅路を一歩一歩歩んで行こう。パラマハンサ・ヨガナンダのこんな素敵な言葉もあなたを応援してくれるから。

「どんな時ももう一度やってみるのです。もはや戦えないと思った時に戦いなさい。」

これって、ドリカムの「何度でも」みたいだよね~。言葉、歌、元気をくれる、ありがとう!テツコも元気出る~!また、ヨガをして、心も体も鍛えるぞ~!

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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