好き嫌いは不幸の始まり!?
「好き嫌いがなく、忍耐力を持つ人は、何でも成すことができる。
どこでも好きに動き回れる。
風のように自由である。」
スワミ・シヴァナンダ
日本人の多くは、悪い運命に出会った時、私は何も悪いことをしていないのに、「なぜこんな目に遭うのだろう」と嘆くかもしれない。分かる分かる。「なんで、自分ばっかりこんなについてないのかなー」とか「別に悪いことしてないのになぁ」とか。テツコは特に、「こんな辛い目遭うはずがない」ってそもそも、思ってしまっているから、不幸に遭遇した時に、信じられないし、精神的に追い詰められることもしばしば。
そもそも、「いつ何時不幸な目に遭うかは分からない」くらいのスタンスの方が楽で良いのかもだね。でも、不幸な出来事に遭遇した時には、目をそらしたくても、そらさず、ちゃんと向き合おうとだけは思っているんだけれど。時間はかかっても、ちゃんと向き合っておかなきゃって。しばらく、放置してから、だけど(笑)
それに対し、ヒンドゥ教は「たとえ現世で悪いことをしていなくても過去世で悪いことをした結果だ」と考える。仏教でいうところの自業自得、すなわち自己責任と考える。「何が、われわれをつれてくるのか。われわれの過去世のおこないです。何がわれわれをつれだすのか。われわれ自身の行いです。」(はじめてのヴェーダーンダより)
でも、「前世があるから」と言われれば納得できるところではある。元々、お金持ちの人とか、めちゃくくちゃイケメン&美人さんとか、生まれた時から得ている物って平等じゃなさすぎるんだよね。だから、「前世のせい」なんだって思えば、不条理に打ちのめされている日にも、なんとなく「そうかー」とは思える。
本人たちが抱えている、とてつもなく、つらい人生があったとしても、表面的にしか、なかなか幸せって測れないから。テツコが見ていない事実があるのかもしれなくても、時々、不条理はものすごーく感じてしまうのだ。子供みたいに「ずるいずるい!」って(笑)いかんせん、差がありすぎるんだよね。
一方で、それでは、運命を受け入れるしかないではないか!何でも「前世のせいか?」と「無自覚の運命を受け入れろというのか?」と声が聞こえてきそうである。無自覚の責任を、なぜ現世で克服しなければならないのだろうか?
ヨガには宇宙一切の意識である梵(ブラフマン)と私たちの本質の意識である我(アートマン)は本来不可分の一体であるという考え方がある。大宇宙と小宇宙とも言うが、我々は大宇宙という限りなく絶対的な偉大な宇宙の力の一部に過ぎない、人間一人一人は小宇宙という極めて小さな存在である。
そう考えると、意味の分からない不幸も宇宙のほんの一部で、意味の分からない幸福も大いなる宇宙のほんの一部なのだろうから、自己責任なんだと言われればそうかなという気にもなってくるのではないか。(そうなの?)
ただし、ヨガ哲学においても「過去がすべて」と言っているのではなく、「現世で変えることができる」という現世の可能性もきちんと我々に与えてくれている。
サティヤ・サイババは語る。
「過去にした悪い行いのせいでおこっている苦しみを、どう断ち切ればいいのでしょう。よいことをするほかありません。」
そう、善行を積むことで断ち切ることも可能なのだ。本当に、良いことをすれば良い運命が切り拓けるのだろうか。
とても優しい知人がいる。お金にも困っていない。幸せそう。そんな知人はとても優しくて筆不精なテツコに定期的に連絡をくれて、いつも励ましてくれる。その時、テツコみたいな孤独な人間にも寛容で優しいってところで善行を積んでいるから幸せなのかなって解釈している。
さらに、とっても優しい友人がいる。彼は誰に対しても優しい。雪の日に滑るブーツを履いていたテツコにスニーカーを貸してくれたり、恋愛で落ち込んでいたらスパゲッティを作ってくれたりとにかく優しい人だ。彼も結婚したばかりで幸せそう。きっと誰に対しても一日一善のように善行をたくさん積んで生きているような人だからきっと幸せなんだなってテツコは勝手に解釈している。
最後にもう一人。ブータンで出会った尊敬している人。彼はブータンと日本の架け橋として活躍している人物。ブータンに住む彼は感銘の受けた言葉をメールで日本のテツコに送ってくれる。どうしようもなく落ち込むテツコに元気の出るメールをくれてとても感謝している。彼もやっぱりイギリス人の奥様がいて幸せそう。彼も善行を積んでいるから幸せなのだろうと勝手に解釈している。
3人の共通点はこんなテツコに優しいくらいだから、人を毛嫌いしないし、好き嫌いも激しくないんだと思われるところである。テツコ自身、職場で嫌いな人が多すぎて、きつかったことがある。テツコの場合、その人たちに何かをされた訳でもなく、何か嫌なことを言われた訳でもなく、毛嫌いしていた。なんとなく。
今思えば、何か被害に遭ってから嫌いになってもよかろうに、テツコは何もされなくても、そもそもほとんど話をしたことがなくても、なんとなく嫌っていたように思う。あの頃は、相手に嫌いと言われてなくても、なんとなくの毛嫌いが自分を苦しめてたんだなぁと思う。
このように考えると、間違いなく、好き嫌いなく、善行を積んでいる人たちは幸せに過ごしているのである。優しい人ってやっぱり幸せなのだ。先ほどの2番目の友人にいじわるなことを言うと、「そんなんじゃ、君には優しくできない。」と叱られたことがある。優しい人は周囲を幸せにする。そして自分自身も幸せになれる。他にもこんなことを同僚に言われた。「人のために何かするってことが一切ないですよね。」と(笑)
テツコはそういう人間だからダメなんだ。テツコだって好きな人には優しくしてるけど。その「好き嫌い」という考えが諸悪の根源だ。幸せだから優しいのか?優しいから幸せなのか?これまた、哲学だなー、卵が先か、鶏が先かだよね。
ただし、これもまたきっと堂々めぐりと好循環が作れるかどうかの問題だから、おそらく、日頃から人の欠点も許せて、誰に対しても親切な人が幸せになれるんだと思う。人に優しく、誰に対しても平等に優しくだ。人間力ってそういう力だ。
スワミ・シヴァナンダは
「好きになることは、嫌いになることと同じくらいに危険なことである。好きがあれば必ず嫌いがある。すると、嫌いな時だけでなく、好きな時にも苦痛を感じる。事物が楽しみを与えてくれる時、人はこの事物が好きになる。しかし、この事物から引き離された時、たとえば愛妻や息子が死んだ場合、言い表しがたい悲嘆を感じる。食後、果物を食べる習慣があると、果物は楽しみを与える。果物が好きになったのである。だが、ある日果物を入手できなかったら、苦痛を感じる。楽しみと好みがあれば、必ず恐れと怒りが共存している。怒りは欲望が形を変えたものにすぎない。恐れと怒りは楽しさと好ましさの長年の友で、常にこの身の中に隠れて心を苦しめ続けてきた。」
確かに、好きって感情も一見素晴らしいけど、失った時につらいよねー。テツコはヨーグルトが異様に好きだけれど、買えなかった時は異様につらい。
さらに、スワミ・シヴァナンダは
「好き嫌いの滅したヨーギ―は、好き嫌いがなくなると自由になる。・・(略)・・好き嫌いがなく忍耐力を持つ人は、何でも成すことができる。どこでも好きに動き回れる。どこでも好きに動き回れる。風のように自由である。」と、教えてくれる。
最後に、バガヴァギット・ギーターの一節から。
「心の働きが静かになり、動く性質が静かになり、ブラフマンと一体化した罪も障害もないヨーギには、この上ない幸せが訪れる。」
これから一生懸命善行を積むので最後には梵我一如に到達できますように。人に優しくするので、幸せになれますようにと、今日からコツコツ、人に優しくれきたらよいなぁと。毎日ヨガをすると、こんな風に自分を顧みることができる、今日もヨガヨガ!
今日も読んでいただき、ありがとうございます。