【ヨガ哲学の名言】あなたは何ヨーガ?タイプ別に発表??

yoga

みんな人生という名の修行中!ひっそりと咲く花は尊い。

「神は無限である。神にいたる道もまた無限である。」

ラーマクリシュナ

ヨーガの語源は「結合」または「一体化」という意味のサンスクリット語、ユージという動詞。ヨーガの目的は自分自身と神を結びつけることであり、ヨーガの実践はこれを達成するための道。

神って言われると、日本人は無神論者が多いから、理解が難しいかもしれないけれど、個人的には、神でも、大いなるものでも、運命を司っているものでも、自分の力では抗えない自然の力でも良いように思う。生粋のヨギーニには怒られてしまいそうだけど。

では、向上心の高い人は大きく4つの心理的傾向の型に分類することができるという。(以下は「初めてのヴェーダンダ」の抜粋となります。)

①あなたは感情的なタイプ?

②あなたは理論的なタイプ?

③あなたは身体的に活発なタイプ?

④あなたは思索的なタイプ?

占い好きな私はこんな聞かれ方をされるだけでドキドキしてしまう。血液型みたいに4種類に分けて考えるなんてうふふっ、と興奮するのである。テツコは・・・④かな。

それでは答えの発表!

「①感情的なあなたは愛の道バクティ・ヨーガが向いている。バクティ・ヨーガは献身の道であり、神への愛や愛による瞑想をとおして神に到達する方法。」

「②理論的なあなたは知識の道ギャーナ・ヨーガ。ブラフマンとアートマンの知識、それらの一体性についての認識。瞑想や自己探求を深めながら、真我との統合に至る道。」

「③身体的に活発なあなたは働きの道カルマ・ヨーガ。カルマとは行為一般を意味する。寝ること、笑うと、泣くこと、喜び、悲しみ、称賛、非難などすべて。わたくしたちの現在の容貌・体格・気質・能力などは無限の過去からのカルマの結果。そういう意味では自分の境遇や才能が他人より劣っていることがあっても、それは過去のカルマの結果。しかし、カルマの結果が未来に影響を与えるので、現在いかに行為すべきかを知ることが大変重要である。自分の仕事の成果を自分自身に蓄えるのではなく、精神的供物としてその成果を放棄するというもの。」

「④思索的なタイプは瞑想の道ラージャ。ヨーガである。人間の精神力を利用し、精神統制の家庭をとおして、アートマンを認識する。ラージャとは「王」「国王」の意味、王が他のものを支配し統御するように、心を統御するところからついた名前である。」

わくわくしながら、読み進めていただいたあなた、実は、ほぼほぼの日本人は出家していないので、ほとんど全員がカルマ・ヨーガなのです。ごめんなさい!テツコ、謝罪!テツコは④かなと言いながらも、結局、出家していないため、③カルマ・ヨーガなんです。誤解を与えまして、申し訳ございませんでした!

佐保田先生もこう説明している。

「修業をして悟りを開いて、本当の解脱に達する、その修行がラージャ・ヨーガ。家を出てしまわなきゃダメ。お釈迦さんは、29歳の時に自分の子が生まれたら、すぐに生家を出てしまったんです。絶世の美人を皇后に迎えておきながら、その人が子供産んだら出てしまったんや。日本では出家した人を養ってくれるところがない。インドはそういう人を養ってくれる所があるからできるんです。それからインドは暖かいから、たった1枚でも1年中暮らせる。日本では社会のなかにしか生きてゆけません。」

と、こんな時に気候が話題になるとは、驚く。確かに、真冬の日本で外で寝るなんて死んでしまうかもしれない。「出家もしない私達には無理だ」とあきらめる前に、やはり、聖者たちは、言霊の力で、勇気をくれる。

ラーマクリシュナは言う。

「神は無限である。そして、神にいたる道もまた無限である。」道は違っても、結局は同じ山の頂点に至るのだから、どんな道だっていい。と。

なんてうれしいお言葉。みんな違う人生、ヨガにかけられる熱量も時間も体力も様々。日々精進していればよいってことかしら。

ヴァガヴァギット・ギーターでは、

「それぞれの個性に応じて彼らは愛する。」

「いかなる形を通じてでも、私のもとにくる者は誰であれ、私は彼に接する。すべての人は、ついに私に到達するところの、さまざまな道を通って努力しつつあるのだ。」

といかなる道も肯定している。どんな道であれ、神との合一は可能なのだ。

さらに、聖者のラーマクリシュナはこんな風に、表現している。

「形のある神を拝んでもいいし、形のない神を瞑想してもいい」

ラーマクリシュナって本当、発想が自由。

ただし、仏教ではこんな言葉がある。

「縁なき衆生は度しがたし」

どんな意味かというと「自分になんの関わりも有たない人間は救うことはできない。」という意味。

やはり、きつい時だけ、救って欲しい時だけ、神頼みするのも、虫の良い話である。だから、どんなヨーガであれ、神に祈りながら、人のために生きながら、その生き様こそが、神と縁を持つことができるのではないだろうか。

あえてシンプルに言うが、きちんと生きるのが一番ってことだよね。自分ばっかにならずに、人のために。ただ、刹那的に、都合よく、神の御利益に期待するのではなく、ヨガをして、日々祈りながら、ちゃんとした生き方をしよう、なんて。テツコも身に染みつつ。

どんな道でもかまわないのだから。

「人間にはそれぞれ道があろう。しかし人は人であって、自分ではないのであるから、自分は自分の道を歩んで行かねばならないのである。「花より肥料に」ということばがあるが、美しい花を咲かせるためには、その背景に、その土壌に、りっぱな肥料がなければならないのだ。そのようにみてくると、道のかたわらにも、無限の宝が隠されていることがわかる。天下の大道はすばらしい。しかしながらその大道のかたわらにひっそりと咲く花もまた尊いのである。」(無限の世界観より)

たとえひっそりと咲く花であっても、けなげに生きるあなたは美しい。

大きな出来事はなくても、日々、ただまっすぐにひたすらに生きるあなたは美しい。

今日も、お読みいただき、ありがとうございます。

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