カルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガについて
「すべての川や水が海に入って一つになるように、すべての信仰の道は神に帰する」ウパニシャッド
「人が進む道はすべて私の道である。人々がどこを歩もうとも、私へと通じている。」バガヴァギット・ギーター
仕事と恋愛、どっちが大事?女子に聞けば「恋愛」、男子に聞けば「仕事」と言った具合が、ノーマルかしら?!いや、もはやこれは過去のお話でもう全然違うのだけれど、こんな話になると、テツコはすぐに森鴎外の「舞姫」が浮かんでしまうから、男性の出世欲や歴史上の人物の権力欲は、理屈ではなく男性の心底望んでいるものだと、解釈して生きて来た。
でも、もう、男子とか女子という概念そのものが、もう時代遅れ。ただ、テツコの若い頃は恋愛一番の友達が多かった。自分も含めて、恋愛1番みたいな価値観が、自分を縛って来たように思う。単純に楽しかったからなんだけどさ!
この10年20年30年で、価値観が大きく様変わりしていることを肌で感じる。多様性とか「ダイバーシティ」って言葉がたくさん使われるようになったから、というのもあるのかもしれないけれど、生活スタイル、生活そのものが本当にみんなバラバラで、何が普通なのかとか、みんなが持つ共通性・共通点を探すのが難しくなっている。
人付き合いもそう。「どうやって、共通の話題を見出すか?」はけっこう難しい。「推し」もみんなバラバラだし、「推し」と今までの「ファン」って何が違うのかなぁ?とかまだまだ、初心者のテツコだったりする。ただし、「推し」が一緒だと分かると、グッと距離が縮まる。そんな時代。
とにかく、無難には「ネトフリで何見てる?」が良い気がしてるけど。テツコ的には「YOUTUBEで何見てる?」だと情報が多すぎて、知らない物が多すぎて、「へ~」で終わる可能性が高いように思うから、盛り上がらない気がする。
多様性・ジェンダーフリーの良い時代の良い流れを断ち切ってはいけない。男女の枠を飛び越えて、性差は当然あるけれど、男女という枠組みで語ることは、ここでストップしよう!
それほど、「人による」っていうのが現代だ。みんな違うことが正解なのだ。
話を戻すね、かくいうテツコは、かつては彼氏に「仕事と俺のどっちが大事なんだ?」と言われたことがある。今となってはお熱くて若き日のうらやましい話だとしか思わないが、それほど、仕事に夢中な時期があった。
逆に、仕事のせいでなかなかかまってくれなかった彼に対して、「仕事と私、どっちが大事なの?」なんて言ったこともある。こんなどうでも良い?会話が成り立つのだから、恋愛というのはある意味、恐ろしいものである。
今は、「両方大事にしようぜ!」みたいなノリがテツコには合ってる。選ぶ必要はない。
さて、今回はこの問いを、ヨガ的に解説したみたい。
この問いはヨガ的に考えると、仕事という役割をもって社会に尽くす義務、すなわち「ダルマ」を実践する「カルマ・ヨーガ」と、神への愛に生きる神聖なる「バクティ・ヨーガ」の話と言っても良いかもしれない。
サイババも義務の重要性について語っている。
「肉体はこの世で生き、義務を果たしていくために与えられています。義務は神です。自分の義務を果たしなさい。」
それでは、自分の義務とは何なのか。そんなことに疑問を感じてしまうかもしれないが、おそらく現代世界では仕事が義務と言えるだろう。
しかし、サイババは単純に仕事をすればよいとは言っていない。
「各人が自分の義務を果たすべきです。義務は英語では、ある決まった仕事のことを指しますが、人間の義務は単に何かの仕事をすることではありません。義務にはニシカーマカルマ(私心のない行い)という意味が伴います。利己的な人は魚にも劣ります。利己心を捨てなさい。すべての人を助けなさい。」
利己的だと、魚以下だって!ワオ!すごい名言だね。
つまり、自分のためだけではなく、「他人のため」に働くこと、それが義務であり、その義務を果たしていくことが我々の使命ということ。「自分のため」ではなく、「人のため」が我々が果たすべき義務ということなんだ。
さらに、サイババは義務を果たす際の態度についても言及する。
「あなたの義務は自分の良心に従うことです。良心はあなたが気高い性質を現わすのを助けてくれます。良心は一番価値のある、あなたの財産です。」
現代において、良心を持ち、あらゆる人のために仕事をするのが我々の義務であり、カルマ・ヨーガ実践者と捉えてもよいだろう。それに対して、バクティ・ヨーガとは何だろう。バクティ・ヨーガとは神との絶え間ない交流の実践を教える神聖な愛の道であるという。
バガヴァギット・ギーターでは
「常にわたしを想い わたしを信じ愛せよ わたしを礼拝し わたしに従順であれ そうすれば必ずわたしの住処に来られる わたしは君を愛しているからこのことを約束する」と神を愛することで神との愛は永遠になるという。
こうなると、最初の問いである「仕事と恋愛、どちらが大事か?」がなんと愚問なのかと思うところだが、佐保田先生はこの2つについて面白い考察をする。
カルマ・ヨーガに向いている人とバクティ・ヨーガに向いている人がいるというのだ。それは、活力があるかないか。
「活力のない人。そういうふうに生まれついているんだから仕方がない。そういう人はバクティ・ヨーガだな。バクティというのは、宇宙最高の神様である自在神(イーシュバラ)を信仰して、その神様を心から敬愛することです。一生涯自分自身の全生命をこの最高神に捧げるつもりでこの人生を送っていく。」
「活力のある人はカルマ・ヨーガでいく、元気がない人は今言った神様に対する信仰を一生続けていくバクティ・ヨーガをやる。」
活力があるともないとも言えない中間の人にもこんな風に言及している。
「中間の人は、両方を混ぜておやりなさい。私は両方の道を混ぜてやっています。活力といったってたいしたことない。ある程度のカルマヨーガしかできない。そこであとの足らない部分をバクティヨーガでやっています。どちらかでやっていくにしても、両方をやっていくにしても毎日体操をやらなきゃだめです。体が弱いと、第一そのヨーガをやっていくだけの心の用意ができません。体操をやってだんだん心が開発してくる。そして、開始されてきたところでカルマヨーガなり、バクティヨーガなりかをやるか、または両方まぜこぜにやる。」
ととっても模範的で理にかなっている生き方を提案している。現代人、特に、日本人にはこんな生き方が合っている。運動習慣についても、とても叫ばれるようになっているし、仕事はしないと、生活できないし、ということでまぜこぜでテツコも生きているつもりだ。こんな、ヨーギーな生き方をしたい。
「ヨーギーは苦行者より偉大である ヨーギーは哲学者より偉大である ヨーギーは有益な働き手より偉大である 故にアルジュナよ せひヨーギーになりなさい」(ヴァガヴァギット・ギーターより)
さて、少し話を変えると、カルマのうち、
アガミ・カルマー今作っているカルマ
サンチタ・カルマー過去世に蓄積されたカルマである。
我々が恋愛に夢中になって仕事を休んでしまうとなると、義務をさぼるという悪い習慣を持つ怠惰な人間となってしまうかもしれない。後世において自業自得として、その結果は継続され、来世ではろくな人生にならない。悪い輪廻は作らないようにしなくては。なんて考えてしまうのがヨガ頭だったり。
また、アガミ・カルマにおいて、怠け者という悪い習慣はサンチタ・カルマとなり、次の生において自分を苦しめることになるだろう。気を付けなくては。なんて、ヨガ頭になると、こんな感じだ。テツコだけか?そうやって、自省するようになるのもヨーギーな気がする。
最後に、人は災害や困難に遭遇した時、頼りにし、考えるのは家族への愛だという。人が物質的なものすべてを失い、極限状態になった時、やはり、求めるのは精神的な救いである。神への愛である。やはり、流行ソングにもあるように、最終的には「愛が勝つ」と考えられるので、愛(バクティ・ヨーガ)に1票なのかしらとも思う。
いざ、結論!状況次第で変わりうるので、仕事も恋愛もどちらも大切にしながら、佐保田先生にように中間で生きていこう!
ウパニシャッドにはこんなすべてを凌駕する素敵な言葉がある。
「すべての川や水が海に入って1つになるように、すべての信仰の道は神に帰する」
バガヴァギット・ギーター
「人が進む道はすべて私の道である。人々がどこを歩もうとも、私へと通じている。」
そう、仕事を頑張るあなたも、神を愛するあなたも、神様はちゃんと見ている。よし、今日もちゃんとヨガをして、ちゃんと生きますか!
今日も、お読みいただきありがとうございます。