コンプレックスの逃避について
「愛のあるところに苦しみはない。
愛すること、それはそれだけで満ち足りることだ。」
クリシュナムリティ
5年間付き合った彼氏には正直わがまま放題だった。彼はとても女性のダメな部分を熟知している人でもあり、許してくれる人でもあった。彼の口癖は、カップルがケンカした時、「女を怒らせる男が悪い。」と、いつでも謝ってくれる、そんな懐の深い、人間としてできた人だった。これ言えるの、すごいよね。ありがとう、感謝しかない。
だから、ヨガに出会う前の自己中心的なテツコでも5年間も続いたのだ。最高の「与えられた愛」だった。でも、結局、テツコから別れた。未知なる何かを求めて。
反対に、「与えた愛」はというと、同棲した彼氏だ。仕事の手伝い、毎日の家事など、人間が変わったように尽くした。背の低さがコンプレックスのテツコは高身長の彼に憧れ、鼻の低さがコンプレックスのテツコは鼻の高い彼に憧れ、ぽっちゃりのテツコは細い体の彼に憧れ、自分のコンプレックスを彼といることで解消できたような気持ちになった。
理想通りの彼(見た目がタイプって意味)が一目惚れをしてくれて、告白してくれて、すぐにつきあい始めた。
夢中になったテツコは、今考えると、心理学用語での「防衛機制」の1つである補償のような、ある種、自分の欠陥を補ってもらえるような快感があったのだと思う。「防衛機制」とは欲求不満などによって社会に適応できない状態に陥った時に行われる「適応」のこと。自分のコンプレックスを彼が補ってくれているって思えたから、幸せだったのかもしれない。だって、コンプレックスって一生消えないからねー。
気持ちの持ちようだったり、忘れてるくらい弱くなることはあるけれど、基本的には受け入れた方が早いんだけど、何かで補えれば最高ってつい思っちゃう。自分の背の低さを補うヒールだったり、目の小ささを補うマスカラみたいに、たぶん、彼といることで欠けてるものを補えてる快感があったのかもなー。
案外、中身を見てからちゃんとつきあっているようでいて、中身をしっかり見る恋愛って難しいよねー。ヨガ哲学でも「コンプレックスからの逃亡は欲望の一種」らしい。
クリシュナムリティも「逃避は自己を忘れようとする欲望である。」と語っている。
重ねてこんな風にも。「欲望は愛ではありません。欲望は快楽です。」
恋愛って、「全く違ってる方が補い合えるから、うまくいく」とも言うし、「似ている方がうまくいく」とも言う。テツコの考え的には、結局は、恋愛って最後には結婚して「生活」になるから、経済観念・お金の使い方などの絶対的な生活基準は同じ方が良いけれど、会話だったり、趣味だったり、合わなくても生活に支障がなくて、お互いの違いを楽しめる範囲内での違いががあった方が飽きなくて新鮮で良いのかなと解釈しています。
離婚理由の多くは価値観の違いってわけだしね。家族関係とか、お互いの絶対的に大切にしているものとか譲れないこととかはたぶん似ていた方が良い気がするなぁ。みなさん、どう思いますか?
「夫婦は似てくる」っていうのも、テツコ的には、同じ家に住んで、同じ食べ物を食べて、同じテレビを見て、っていう「生活そのもの」が同じオーラになって、そう見えるのかなって思う。人の家って独特のにおいがあったりするし、テレビとかドラマとか映画とかって、結構、その人に影響している。
そもそも、同じ作品を選んだり、見たりしているだけで、星の数だけあるコンテンツから共通のものを見ているだけですごいことなのだけれど、それを繰り返している訳だから、思考も似てくるのかなぁって、思考そのものが似てくるというよりも、考えている方向性が似てくるみたいな。
よくテツコは、友達夫婦の家に遊びに行くんだけど、同じドラマ見てるから、話も、「このドラマがね」って夫婦で同じこと言って盛り上がってて、「ほんと、夫婦だね!生活同じだわー。」って笑ったことある。
話を少し戻しますね。ヨガ哲学ではありのままの自分を受け入れることが重要らしい。自分の欠点を隠そうとしたり、誰かに補ってもらおうとしたり、誰かに任せたりすることは精神的に依存している状態だから、強い精神状態とは言えない。これは「学問のススメ」の福沢諭吉も言っている。「依存すると、独立心のない情けない人間になる。」と。
事実、心理学的にも「補償」というのは失敗することが多いという。確かに、何かを何か違うもので補おうとしても、その何かがなくなると、ダメになるから、それでは、根本的な解決にならず言語道断なのだろう。その通り、テツコも無理をしすぎたせいか、ストレスが溜まり、結局、「与えた愛」も自分から離れた。
人生ってうまくできている。五年間甘やかされて自分の思い通りになっていた分、人智の及ばない力で神様からしっぺ返しされたという感じ。一緒に暮らすということは、お互いちょっとずつ我慢して、譲れるところと譲れないところをうまくグレーにしながら、それでも一緒にいることに感謝しながら、恋から愛に変わることを待つことなのだと思う。テツコは待つことができなかった。
愛って何だろう。私の心はコンプレックスを忘れる快感から次第に依存に変わって行った。彼がいなくなるのが怖くなった。クリシュナムリティは「依存のあるところに恐怖があります。そして恐怖があるところには権威があり、そこには愛はないのです。」と教えてくれる。
愛はコンプレックスのはけ口でも快感でも快楽でも欲望でも依存でもない。愛はそれだけで光り輝く美しいものだ。
クリシュナムリティは「愛のあるところに苦しみはない。愛すること、それはそれだけで満ち足りることだ。」と、愛の在り方を後世の私たちに伝えてくれる。苦しみ始めたら、その愛はもはや愛じゃないのかもしれない。相手に期待しすぎて相手を受け容れられなかったりするよねー、自分のありのままを受け容れるのと同様、相手のありのままを受け容れられたら良いなぁ。
最後に・・・あなたの愛はそこにあるかもしれない。愛があなたをみつけてくれるかもしれない。そんな時、あなたが愛をきちんと大切にできますように。
今日も読んでいただき、ありがとうございます。